「頭がぱちぱちする」
朝、眠い目を擦りながら学校へ行く準備をする僕に向かって父が呟く。雨の日も、曇りの日も、特に清々しすぎるくらいに晴れた日には、決まってそう呟く。なあ一樹、お父さん、頭の中がぱちぱちしてるんだよ。と。
僕はそんな父が嫌いだった。いや、嫌いだったのは父ではなく、そんな父の言葉だったのかもしれないが、今となってはどちらでも大した違いはない。なぜならば、作家だった父は七年前に心筋梗塞で逝ってしまったのだから。
当時、大学に入ったばかりの僕にとって、父の死は受け入れられる許容量を遥かに超える出来事だった。
外で男を作りほとんど家に帰ってくることのない母と、これから大学受験が控えている高校二年生の妹と、そして僅かな生命保険だけを残して死んでいった父。そんな大嫌いな父の葬式で、僕は涙など流すつもりはなかったのだが、鼻を刺す線香の匂いと、黒づくめの集団を目の当たりにし、火葬場に着くころには、とうとう顎の痛みとともに溢れ出すそれを押さえきれなくなった。煙突から立ち上る煙はやがて雲に混じって消えた。
酔っ払いのような、何かの中毒者のような、あるいは色彩を忘れたカメレオンのような父のまぶた。徹夜で小説を書き、僕らが学校に行くのを毎日毎日笑顔で見送り、それからやっと目を閉じることができた父。
「なあ一樹、お父さん、頭の中がぱちぱちしてるんだよ」
車の中ではノイズまじりのラジオが流れている。高く透きとおった女性パーソナリティの声は車内を埋め尽くし、渋滞の首都高との温度差がはっきりと感じ取れる。ただ、僕にとっては渋滞が苦しいのでもなければ、パーソナリティの声が心地よいのでもない。温度差の理由は、四月に入ったというのにコートが手放せないほど冷え切った新宿の空を、助手席に座る奈々美が眺めているからだ。
「ねえ、一樹。外は寒いのかな」
急におかしな質問をする奈々美に僕はこたえた。
「もしも外が寒くなければ暖房なんて入れる必要ないだろ」
そうね。と小さく言い、奈々美はさらに
「何だか不思議な気分だわ。周りを見るとこんなにもビルが立ち並んでいて、耳をすませば時を刻む音でも聞こえてきそうなのに、この車の中だけは時間が止まったみたいに思えてくるの」
と言った。
僕は、そうかい、とだけ言ってアクセルを踏み、前の車との車間距離を摘み取った。